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旭川 近文アイヌたちの 木彫熊の世界    

2017年8月3日(木)〜 8月27日(日)

kamuy utar pirka epunkine hawe tapan na.
神々よ、良く見守って下さい

北海道の土産品として一世を風靡した木彫熊。日本中の家庭に広まり、昭和の風景にとけ込んだ木彫熊。
それは、旭川・近文アイヌから始まりました。
「食べるために、生きるために」近文アイヌが始めた木彫熊。その昔、山に獣を追い、山菜を採り、川に魚獲ったアイヌたちが、何故「食べるために」木彫熊を作ったのでしょうか?
この大地が「北海道」と呼ばれるようになって来年で150年です。それは、アイヌにとって、本来の暮らしができなくなる始まりでした。とくに旭川は、他の土地のアイヌより複雑な事情を抱えていました。
何度も土地を追われ、生活様式が激変し、理不尽な暮らしを余儀なくされた近文アイヌたちは涙を流しても、歌い、踊り、飲み、語り合いながらたくましく道を切り開き、木彫熊を誕生させました。
そして、全道に広がり、大きな産業になりました。
旭川の愛好家のご協力により、100頭余りの熊が集まりました。是非お越し下さい。


8月20日(日)
11:00〜  14:00〜  
秋山永さんによる木彫熊についてのミニトークを行ないます。


苦難の幕開け
 明治24年、上川地方の開拓が始まるにあたり、旭川近郊のアイヌは近文に移住させられた。それまで自らのルールでこの大地を支配していたアイヌたちは日本のルールに従う事を余儀なくされた。明治34年陸軍第7師団が近文に移転した。そこはアイヌが住むように命ぜられた土地に隣接していた。またしてもアイヌはさらに北へ追われそうになるが、道庁や東京へ赴き、この地にとどまる事になった。しかし、近文アイヌが自由に使える土地は5分の1になり、5分の4は町が管理するこになった。農業を強いられるが石狩川の氾濫域であり、土地が狭いことでそれだけでは生活が立ち行かなかった。貨幣経済が浸透した社会にあり、アイヌ集落を見学にくる軍人やその家族に土産品を販売するようになる。こうした中で誕生したのが木彫熊である。


北海道観光ブーム
 第2次世界大戦に敗戦し、貧しさと復興の昭和20年代近文のアイヌは全国各地へ古式舞踊の披露に出向きました。その後、高度経済成長の昭和30年代、40年代になると全国各地から北海道へ観光客が押し寄せました。旭川の観光の中心は近文アイヌコタンでした。そこでは木彫熊が飛ぶように売れました。アイヌも和人も木彫産業に携わり、その技術は全道に広まりました。木彫熊は全国に広がり、
昭和の風景にとけ込んでいきました。


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